黙示録1章

1:1 イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。

 イエス・キリストの啓示です。それは、神が直ぐに起こるべきことをしもべたちに示すためです。

・「黙示」→啓示(覆いを取る)。顕現は主にイエス・キリスト(みことば)の啓示を指し、特にこれまで(覆い隠されていたゆえに)その程度まで知られていなかったキリスト(その御心)の特定の(霊的な)顕現を意味する。

・「起こる」→アオリスト不定詞。起こることが必要なことをすでに起こったかのように扱い、絶対的に必要なことを強調している。

・「起こるべき」→起こらねばならないこと、すなわち絶対的に必要なこと(「~すべきである」)。

・「しもべ」→奴隷。しもべ。

1:2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてのことを証しした。

 ヨハネが見た全てを証ししました。それは、神の言葉であり、イエス・キリストの証しです。

1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。

 幸なるかな。この預言の言葉を読み、聞き従い、そこに書かれていることを守ることは。なぜならば、時が近づいているからです。

1:4 ヨハネから、アジアにある七つの教会へ。今おられ、昔おられ、やがて来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、

 これは、三位一体の神からの言葉です。七は、満たす意味での完全さを表しています。七つの教会は、すべての教会が対象であることを表しています。アジアの教会に限定されたことではないことを表してます。七つの御霊は、御座の前におられてその御心を完全に実現される方としての御霊を表しています。

1:5 また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、

 確かな証人とは、忠実な証人という意味です。神から証人として立てられたのです。その方の御心に対して忠実であることが求められています。そして、死者の中からよみがえれた方です。死からのよみがえりは、信者との関係において、肉にはよらず御霊によって新しく生まれたことと関連付けられています。そのように信者も歩むのです。地の王たちの支配者であることは、信者の強い励ましとなります。最終的な支配者がイエス様であることは、この地のものを恐れる必要がないことを表しています。

 そのイエス・キリストから恵みと「平安→完全さ」があるように祈りました。恵は、神様が備えた祝福です。信仰によって受け取ることができます。そして、完全さは、それを最大限に受ける道です。御心を行うことでもたらされる完全さは、永遠の報いとしての栄光を豊かに与えます。

 この方は、私たちを愛され、その血によって私たちを罪から解き放たれました。罪からの解放は、内住の罪からの解放です。すでに犯した罪は、処罰の対象になりますが、その罪が束縛することはないのです。私たちを奴隷としているのは、内住の罪です。この罪には、定冠詞がついています。もはや罪の奴隷でなく、御霊により、御心を行う者とされているのです。 

・「確かな」証人→忠実な。信仰に対して誠実なこと。神の示したことをそのまま受け入れ、神のために証しする証人であった。

・「平安」→御心を行うことでもたらされる完全さ。なお、平安は尊いですが、平安であったとしても、御心を行うことなくして永遠の報いはない。

1:6 また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。

 そして、私たちを「御国」としました。イエス・キリストを王とする御国です。その御国は、信者が御心を行って報いを受けることを表しています。御国は、信者のことです。キリストの王としての支配は、信者に対するものです。御国は、栄光を受けた信者が、キリストを王とすることです。

「王国」→御国。

コリント第一

15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。

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 この王国は、信者のことです。父のために王国とし、祭司とされました。父に仕えることができる者とされたのです。祭司は、主の栄光を覚えて父に捧げます。いけにえは、主イエス様で、祭司は、その栄光を知る者とされています。そして、知らされた主イエス様を父の前に褒め称え、父に栄光を帰します。

1:7 見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。

 これは、既に預言されていたことです。主イエス様が現れる時、裁きが行われます。それで深く悲しむのです。

ゼカリヤ書

12:9 その日、わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を根絶やしにしよう。

12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。

12:11 その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダド・リンモンのための嘆きのように大きくなる。

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 その時、彼らは、喜びではなく、神が遣わされた神の御子を突き刺したことを嘆くのです。それは、父の心の悲しみを知るからです。愛によって遣わされた者を拒み、殺したのです。それは、自分にとって、長子を失った時の悲しみと一緒です。父にとっては、長子であり、独り子です。ハダデ・リモンの嘆きは、ヨシヤ王の死を悼む嘆きです。神に愛された王がエジプトによって殺された時、民は大いに嘆きました。そのように、イエス様の死は、神に愛される尊い方の死であったのです。

1:8 神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 神は、支配者を表します。主は、存在者であり、契約の履行者です。そして、ここでは、その方について永遠の存在者であることが示されてます。ご自分について、アルファでありオメガであることを言い表されたのは、永遠の存在者がその目的に従って事をなすのであり、その方の目に適ったことこそ価値があることを示しています。それは、この地にある聖徒への励ましです。

1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟で、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている者であり、神のことばとイエスの証しのゆえに、パトモスという島にいた。

 ヨハネは、自分について、イエスにある苦難に与っている者であると紹介しました。手紙を受け取る人々は、苦難の中にありました。自分もその苦難の中にあることを示し、励ましています。

 彼は、御国に与っていることを示しました。御国に与っているというのは、御国で報いを受けることができることを表しています。それは、苦難は意味のないものではなく、報いを伴うのです。これは、励ましの言葉です。

 そして、忍耐です。御国の報いを望むならば、忍耐できるのです。

1:10 私は主の日に御霊に捕らえられ、私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。

 御霊に捕えられたというのは、直訳では御霊の中にいたということです。完全に御霊の支配を受けた状態です。

 ラッパのような大きな声は、権威と明確さを表しています。

1:11 その声はこう言った。「あなたが見たことを巻物に記して、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアに送りなさい。」

1:12 私は、自分に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。

1:13 また、その燭台の真ん中に、人の子のような方が見えた。その方は、足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めていた。

 七つの金の燭台は、教会を表しています。そして、人のような方は、その真ん中におられましたが、それを治める権威を表しています。

 足まで垂れた衣は、足を覆うためです。それは、ご自分を現すことがないことを表しています。

 金の帯は、この方の義を表しています。この方は、その歩みにおいて完全に義でした。その義は、信仰から生まれます。神の言葉を信じ従うことで義とされます。金の帯が着けられた胸は愛の比喩です。帯は、力強い行いを表しています。その動機は、愛によります。愛により、御心を全うされたのです。

1:14 その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。

 髪の毛が黒いことは、ご自分を覆うことを表します。逆に白いことは、栄光を現すことです。神に従うことにおいて完全であり、ご自分を覆われたのです。それが、この方の栄光となって現されています。

 その白さについて、羊のようであることは、人としての歩みの中で羊のように神に従われたことを表してます。

 雪のようであることは、混じり気ない白さを表しています。

 目は、燃える炎のようです。これは、次の聖句で説明されています。

黙示録

2:18 また、ティアティラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子が、こう言われる──。

2:23 また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。わたしは、あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる。

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 燃える炎の目を持つ方は、たましいと霊を探る方です。「思い」は、直訳で腎臓で、たましいの比喩です。たましいは、神の言葉に従う部分です。「心」は、この場合、霊の比喩です。霊は、神の言葉を受け入れる部分です。

1:15 その足は、炉で精錬された、光り輝く真鍮のようで、その声は大水のとどろきのようであった。

 真鍮とありますが、正確にはわかりません。ただし、ダニエル書やエゼキエル書に示されている青銅が該当します。金属が銅であるとすれば、炉で精錬する場合、純銅になります。混合物は、酸化されてかすとして除かれるからです。

 銅が表していることは、聖さです。神の御心にかなった聖さです。足は、歩みを表しています。聖い歩です。

1:16 また、右手に七つの星を持ち、口から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

 七つの星を持つことは、教会の御使いたちを治めておられる方であることを表しています。

 口から出る鋭い剣は、御言葉のことです。二章には、そのことについて記されています。

黙示録

2:12 また、ペルガモンにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる──。

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 それは、バラムの誤った教えに対抗するものとして示されています。神の言葉によって事をなさる方であることが示されています。

 また、顔について、強く照り輝く太陽として示されています。顔の輝きは、神の権威を表してます。変貌の山で弟子たちに示した顔も太陽のように照り輝いていました。それは、この方が神の権威を持っていることを示すためです。

 強く照り輝くことで、その強さが強調されています。

1:17 この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、

1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。

 人のような方は、イエス様です。一度死なれましたが、いつまでも生きておられます。永遠の存在者であることを示されました。

 そして、この方は、死とよみの鍵を持っています。それは、この方が死に関する権威を持ち、よみに関する権威を持っていることを表してます。鍵は、裁きの後、そこにいれる権威を表しています。永遠の裁きの権威を持っておられます。

1:19 それゆえ、あなたが見たこと、今あること、この後起ころうとしていることを書き記せ。

 ヨハネに命じられたことは、見たことを書き記しるすこと。今あることを書き記すこと。この後起こることを書き記すことです。

1:20 あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台の、秘められた意味について。七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

 七つの星は、七つの教会の御使いたちです。燭台は、七つの教会です。これは、比喩です。教会は、燭台に例えられています。それは、教会の役割に関係しています。証しを担うものです。金は、義を表しています。正しい行いによって証しを担うのです。

 同様に、御使いは、教会の役割として、主の御心に対して完全に服従し行う者を表してます。このように記したのは、「教会」には、神の言葉に従わない者たちもいたからで、真に神の御心を行おうとする人たちに宛てて記されているからです。